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65ni0615ni0615   52  Re:Re:Re:なるほど

(52lovelovedog君)

この表のどこを見たら、富山真順氏が「軍の命令を一般住民に伝えた」的な解釈ができるのか教えてください。

おう、おう、・・・・・

どん、どん、・・・・・

lovelovedog君によって安仁屋教授の言質が歪曲引用され、問題がずらされていく、その状況がリアルタイムで見えています。


私が、BeethovenさんによるWEB検索レポートを紹介したのは、兵事主任あるいは兵事係が軍と民をつなぐ重要職責であったことを再確認してもらう為です。 それなのに君は、秦氏の脳内の産物でしかなく殆ど実証性の無い「秦郁彦氏の表」に、新たな紛れ(マギレ)を求めたようですね。


富山真順氏が「軍の命令を一般住民に伝えた」のは、 秦郁彦氏の表によって証明されるのではありません。富山真順氏の証言によるのです。住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場にいたのは兵事主任であるのだから、それは渡嘉敷島の現場でありうることで、富山真順証言は充分に信頼性にたるといえるのです。


その場に居もしなかった君が、富山真順氏の証言を否定する為には、「住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場にいたのは兵事主任である」、これを否定しなくてはなりません。


そういえば君は、

兵事主任なんか戸籍係の窓口事務員に過ぎない、とか、

・兵器軍曹なんて聞いたこと無い、だから疑わしい、

とか言っていましたね。「住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場」であることを否定するために。


兵事主任が要職であるから座間味島助役もそれを兼任していた。それに対して君は、兵事主任なんてとるに足らないから兼務していた、といった幼稚な言い訳でお茶を濁そうとしましたね。


しかしそれらは全て破綻したようです。君の mission tool として今残っているのは、「命令系統」という「観念」操作による紛れのようです。ハハハハ、どうやら私が「秦郁彦氏の表」という救命浮き輪を投げて差し上げたようです(笑い)。


以下は、lovelovedog君、あなた自身による最初の引用を再引用させてもらいました。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061017/aniya01より


(lovelovedog君のリード)

で、『裁かれた沖縄戦』では、それは以下のように書かれています。p12-15、「はじめに」から。

(安仁屋教授の引用)


住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任徴兵事務を扱う専任の役場職員である。戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。元兵事主任の証言は次のとおりである。


1・1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。新城真順氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。


2・そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、訓示をした。


米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」


3・3月27日(米軍渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。


4・3月28日、恩納河原(おんながわら)の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ち込み、住民の「自殺」を促した事実がある。


手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。しかも、住民をスパイの疑いできびしく監視しているなかで、軍が手榴弾を住民に渡すということは尋常ではない。この場合、赤松隊長の個人的な心情は問題ではなく、軍を統率する最高責任者としての決断と責任が問われなければならない。住民が密集している場所で、手榴弾が実際に爆発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ、「自決強要」の物的証拠というものである。


曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。


この点について、原告代理人の反対尋問に対して曽野綾子氏は、


「記憶にございません。とすれば、どこかでお目にかかってお辞儀をしたとか、そういうことはあるかもしれませんが、私はひどい近視でございますので、お顔も全く記憶にございません」


「伺っておりません。それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」


と、このような証言をしているのである。


兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識にてらしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら「神話」の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる。


こうやって元の文章に回帰してみると、あなたが他人との論争をしているうちに、元が何であったかすら分からなくしてしまったことにも気づきます。文献をmission に添ってロンダリングしてしまおうという努力にも。

返信2008/03/27 18:49:15
  • 65Re:Re:Re:なるほど ni0615ni0615 2008/03/27 18:49:15
    (52lovelovedog君) この表のどこを見たら、富山真順氏が「軍の命令を一般住民に伝えた」的な解釈ができるのか教えてください。 おう、おう、・・・・・ どん、どん、・・・・・ ...
    • 66Re:Re:Re:Re:なるほど ApemanApeman 2008/03/27 23:42:37
      ni0615さん 私が、BeethovenさんによるWEB検索レポートを紹介したのは、兵事主任あるいは兵事係が軍と民をつなぐ重要職責であったことを再確認してもらう為です。 それなのに君は、秦 ...